私のプロフィールと思い(簡略)  
私のプロフィールと思い(長文) 
 
私の顔写真 (5,54KB)  私は発明家を志して、はや、二十数年になる発明家です。
 
 二十数年の間には、通算して4900件の発明をし、特許と実用新案を自分の手で25件出願しました。
 
 そして、それらの発明が専門紙や一般紙などの新聞記事(無料)に、自分の目で確認したものだけでも8回成りました。
 
 特許や実用新案を出願する場合、その発明に関して、それに類似する既存の技術や先願者の有無を調べることが重要です。
 
 また、商品化に要する資本や販路の関係で、発明を自分の手で商品化しない場合には、代わりに商品化して頂く企業を捜す必要が有ります。
 
 私は、それらの情報を得る為に、市立中央図書館や、それに付属する産業資料室、県立中央図書館、国会図書館、アメリカンセンター図書館、発明協会の県支部などに数え切れないほど足を運びました。
 
 図書館に頻繁に足を運んだ為に、職員に疑われて白い目で見られて不愉快な思いをした事や、公務員であることを忘れたような悪意のある態度をとる職員に、不愉快な思いをさせられた事が何度となく有りました。
 
 しかし、それも遠い過去の事になりました。
 
 もう、二度と、そのような心の卑しい人間を見ることは無いでしょう。
 
 インターネットを利用して国内外から情報を収集すれば、私にとって有用な最新の情報を短時間の内に、自宅に居ながらにして、少ない労力で容易に得られ、また、日本の図書館には、ほとんど無い海外の情報、それも最新の情報が容易に得られることも分かりました。
 
 
 私は、発明に関連した情報を得る目的や、試作に必要な材料を入手する目的などで、東京に6回、大阪に1回名古屋に100回位、静岡市に40回位足を運びました。
 
 そのほか様々な所、様々な施設に数え切れないほど足を運びました。
 
 頻繁に足を運んだ名古屋では、雪が降り積もる凍てつくような街を回ったことも、何度か有りました。
 
 また、ムッとするような熱風が吹きすさぶ炎天の街を回ったことも、何度か有りました。
 
 名古屋への行き帰りの国道一号線では、乗用車がトラックなどの大型車と衝突して大破した交通事故の現場を何回も目撃しました。
 
 そのような事故の現場を見た後、私もいつかは、あのような目に遭うのではと危惧しましたが、私が住む片田舎?では用が足りず、名古屋へ行くのを止める訳にはいきませんでした。
 
 私には、試作業者に依頼するような資金は全く有りませんでしたので、自分の足で様々な素材や材料を捜して入手し、自分の頭をフルに使って様々な工夫をし、試作の為に使う様々な自具を制作し、その自具を使って試作をし、何度となく様々な失敗をしました。
 
 その問題点を考察し、また新たに、新たな素材や材料を捜して入手し、更に頭を使って様々な工夫をして試作を繰り返し、その過程で様々なアイデアやノウハウを得ました。
 
 
 私は貧乏な発明家の為に、ごく小さな小型車や軽自動車しか持てませんでした。
 
 小型車や軽自動車では、事故に巻き込まれたら一巻の終わりになりそうな東名高速は利用できず、国道一号線などを利用して、東京、大阪、名古屋、静岡市などに足を運びました。
 
 一般道を利用して東京や大阪まで足を運ぶと、時間帯にも依りますが往復15時間から20時間位は要し、用事を済まして、とんぼ返りすると、自宅にたどり着く頃には、精神的にも、肉体的にも疲労困憊してしまいました。
 
 自宅にたどり着く頃には、疲労で頭がもうろうとして、事故を起こさずに、よく無事に帰って来れたなと思った事も有りました。
 
 東京からの帰りには、箱根の峠道では夜となってしまい、必ずと言ってよいほどに濃霧が発生して、前方がほとんど見えず緊張の連続でした。
 
 ときには、濃霧の為に道に迷ってしまい、深夜に、箱根の山中や富士山の山麓の山道を、不安と孤独感をもちながら長時間さまよった事も有りました。
 
 それは、相当なストレスでしたが、自分の能力を信じて、明日に夢を持ち続ければ、それは、まったく困難でも、苦痛でもありませんでした。
 
 
 私は、日々の生活の中で、常に、新しい発想の創出に心がけ、思いついたものを図にし、説明文を加えて書き留めてきました。
 
 大きな独創的な発想が一つ頭に浮かぶと、それに付随した様々な発想が、次から次ぎと頭に浮かんできます。
 
 思いついた発想を書き留める手の速さより、枯れることの無い泉のように、次から次ぎと頭に浮かぶ新たな発想の方が遥かに多く、詳細に書き留めていると間に合わないので、とりあえず、ごく簡単に要点だけをメモし、発想が出尽くしたところで、メモを見て詳細に書き直すようにしています。
 
 しかし、詳細に書き直していると、新たに、次から次ぎと新しい発想が頭に浮かび、これでは、きりが無いなとウンザリしてくることも間々あります。
 
 それでも、気を取り直して、発想が出尽くすまではと、最後まで書き留めるように心掛けています。
 
 それらを書き留めたノートが、厚手の電話帳三冊分ぐらいには成りました。
 
 しかし、それは、私にとっては価値が有っても、私以外には、ほとんど価値が無いものかもしれません。
 
 世の中には、下の下としか表現のしようがないような、さもしい企業や人間が存在することを身を持って、何度となく体験し、よく知っていますので、用心して、常に、重要なことは全て私の頭の中だけに留めるように心掛けています。
 
 私は、その他にも、発明に関しては、筆舌に尽くしがたいほどに、多大の精力や労力を惜しみなく傾注してきました。
 
 それが、たとえ、結果的には無駄骨折りや、徒労に終わろうとも、それが今後の蓄積になると思い何ら意に介しませんでした。
 
 
 もし、得られるものが僅かばかりのものであっても、確実に得られることを望むのであれば、馬鹿になって、組織に利用されるだけの、使い捨ての歯車となれば容易いことです。
 
 しかし、私は、それよりは、大きな事でなくても、才能を世界に認められるような人間に成りたい。
 
 行動に対して必ず結果を求めるのであれば、欧米人に軽蔑される?いわゆる「猿真似」に徹すれば良いです。
 
 しかし、程度の差こそあれ「猿真似」なら、本物の猿にでも出来、それが、どれほど巧みだったとしても、頭脳として評価するには値しないと思います。
 
 私が見た米国にある知的所有権関係のホームページの中には、「警告 日本の企み!」との題名の文書を掲載しているホームページも有りました。
 
 その本文は読みませんでしたが、どのような趣旨のことが記載されていたかは想像に難くありません。
 
 日本は特許の出願件数が世界一といわれます?が、現在の文化的な生活や科学技術を支えている様々な発明の内で、日本で、その原理が発明されたものが有るだろうかと考えても、私が勉強不足の為か重要なものでは全く思いつきません。
 
 欧米で発明された商品や技術を、ほんの少し改良しただけの誰にでも出来る発明では、世界の人々は、発明としての価値を認めないとともに尊敬もしないと思います。
 
 数多くの日本人が、世界に通用するような発明、発見、研究、創作などを成し遂げてこそ、世界に日本人が優秀な人間であると認められ尊敬されるのであって、欧米の猿真似による繁栄では、頭は大したことはないが、手先が器用で猿真似が得意でずる賢いとの評価しか得られないと思います。
 
 
私の顔写真/若い (10,2KB)  私は家庭の事情で充分な教育を受ける機会を逸しましたが、頭に関しては自信が有ります。
 
 実際に、名もない学校でしたが、試験の際には、制限時間90分間や120分間に対して、特に勉強しなくても、常に5分か10分ほどで答案を提出して退席し、周りを驚かせるとともに最高得点を得ていました。
 
 日本では、経済的に恵まれた家庭や、教育熱心な家庭の子弟などが、充分な教育の機会を得、本当の意味での頭の良さでは百人中、千人中ビリから一番かも知れないような人間が、社会の日の当たる場所で温々と暮らして居ることが多々有ると思っています。
 
 私は、先人の成果を受け売りしているだけで、そこから一歩も踏み出せないような人間には、たとえ、どのような肩書きが有ったとしても、頭脳としての価値を感じません。
 
 先人の成果の受け売りだけでは、どれほど高度な知識が、どれほど豊富に有ったとしても、それが優れた頭脳であることの証しには成りえません。
 
 本当の意味での頭の良さでは百人中、千人中ビリから一番かも知れないような人間でも、恵まれた環境さえ有れば、何にも煩わされることなく、何とかの一つ覚えで根気よく勉強でき、また、家庭教師や学習塾もふんだんに利用でき、既に有ることであれば覚えることは容易だと思います。
 
 一度しか無い人生、もし、本当に頭が良いと思っているのであれば、それを生かす道を選んだらと思っています。
  × 365日 
 もし、才能を発揮でき、自分の発明した理論や技術が世界中で使われ、その才能を世界の人々に認められたら、どれほど名誉なことだろうか。
 
 もし、本当に頭が良いと思ってい、それを発揮できる恵まれた環境を与えられているのであれば、世界に認められるような発明、発見、研究、創作などを成し遂げて、日本に次々とノーベル賞をもたらして、日本にノーベル賞の山を築いてみろと思っています。
 
 しかし、所詮、親の七光りだけでは、どんな素晴らしい環境を与えられても、エジソンにも、アインシュタインにも一歩も近づけないと思います。
 
 また、誰がやっても、遅かれ早かれ同じ結論になるような研究成果しか挙げられない人間が、研究者として生涯生きられるのでは、欧米の研究者のレベルには及ぶべくもないと思います。
 
 私は家庭の事情で充分な教育を受ける機会を逸し、その為に自分の能力を発揮する場が無く、不遇の人生を歩んできました。次の代では、実力本位の海外に出てでも世界に認められるような人間になってもらいたいと思っています。
 
 
 振り返れば、試作材料などの入手の為に、何度となく足を運んだ名古屋などでは、様々な所で、数多くの親切な人に出会いました。
 
 それらの人々の中には、損得勘定抜きの、本当の意味での親切な人も沢山いました。
 
 名古屋の電話帳を見て、私が必要とする材料を扱っている業者を捜し、その業者を訪ねて行くと、思った以上に立派な建物を構えた会社であることが間々有りました。
 
 その立派さに入るのを、しばし躊躇しましたが、わざわざ名古屋まで来たのだからと、意を決して入って用件を伝えると、どの会社でも、予想した以上に親切に応対してくれました。
 
 私のために仕事の手を止めて、その社の材料や機械を使って、その材料を私が望むように加工してくれ、「今回は無料で差し上げますので試してみて下さい」と加工した材料を無料で下さった社も沢山有りました。
 
 逆に、心卑しい人間に、酷い目に遭わされたことも有りました。
 
 あるとき、発明を売り込む手紙を出したところ、名古屋の、ある中小企業の社長から「発明を直ぐにでも商品化したいので打ち合わせに来て欲しい」との要請の電話が有りました。
 
 そこで、私が先方に出向いたところ、その企業の技術の総責任者と称する中年男が出て来て、恥も外聞もかなぐり捨てて、必死になって私の発明の商品化に反対しました。
 
 その場に同席した社長が、それを諫めるかと思いきや、逆に、その男と社長共々に、私がどのような発明を持っているかを執拗に聞き出そうとし、聞き出せないと分かると、その社長は捨て台詞のような啖呵まで切りました。
 
 その社長は、ある世界的に名の知れた大企業の名を挙げて「あの会社は真似専門で大きく成った。世間では皆、会社名を捩って『まねした〇〇〇』と呼んでいる」と言いました。
 
 更に、その社長は「よその製品のアイデアを真似して自社の製品を造って、一年か二年の内に売りまくればいい。もし訴えられたら『知らなかった』と言えばいい。真似した者が勝ちだ」とうそぶきました。
 
 その他にも言いたい放題のことを言い「特許や実用新案なんか効果が無いが、内は良心的だから、内にアイデアを教えてくれたら、特許や実用新案を出願してなくても金を払うから、どのような発明を持っているか教えてくれ」と執拗に迫りました。
 
 その非常識さに、そちらの都合で、私を遠路わざわざ名古屋まで呼んでおきながら、よくこんな事が出来るなと呆れました。
 
 内心思っているだけでなく、実際に「アイデアなんか盗んで使えばいい」と広言してはばからない企業経営者が居るとは思いませんでした。
 
 そのとき、こんな志の低い人間がやっている会社は長いことないなと内心思いました。
 
 その帰り道、車を運転しながら「足元を見られて騙された」という思いで腹が立ちました。
 
 その数年後に、新聞の新商品を紹介する欄に、ごく小さく、その企業の新商品が載りました。
 
 それは、記事を見ただけで、これを買う人はいないだろう。何処も真似をしないだろうと思うような稚拙な商品でした。
 
 案の定、その後、その商品が売れたと言う話もなければ、商品として展示されているのも、実際に使われているのも一度も見たことが有りません。
 
 上記の出来事で、企業の企画開発担当者や技術者や経営者の外部の発明に対する心中を垣間見た思いがしました。
 
 
 日本には、まだ、知的所有権を重視し、尊重し、知的所有権に対して、その使用権料を支払うという発想を持たない企業が多く、大企業ですら、『ただ』で、よそのアイデアを使うことを考える企業が有ると思います。
 
 ガリ弁秀才をはじめとする単なる労働力を大量に集めて、欧米で発明された技術を巧みに模倣した高品質の猿真似商品を、資本力にものを言わせて大量生産し、従業員一人当たりの利益の低さや、製品の利益率の低さを規模の大きさでカバーして、それにより大きな利益を得るという経営手法は、既に時代遅れになっていると思います。
 
 これからの時代は、商品に付加したアイデアや意匠などの知的な部分が、商品価格の多くの部分を占めるように成るのではと思います。
 
 いくら高品質でも猿真似商品では、コストに利潤を上乗せしたメーカーにとって妥当な価格を付けても、その商品を消費者が支持するとは限らず、日本製ほど高品質でなくても、その商品に見合った性能と耐久性が確保されていて価格がより安ければ、賢い消費者は、そちらを支持すると思います。
 
 
 新聞に、企業の人事担当者が「入社試験の応募者の中から社長面接に上げる人を選ぶときに、自分より能力が高いと思われる大学の出身者を意識的に外しました。私だって、いつリストラの対象にされるか分かりませんからね」と記者に真顔で話したと載っていました。
 
 それを読んで、私が体験した前記の出来事と発想は同じだなと、思わず顔が弛んでしまいました。
 
 私は、そのほか様々な体験から、日本の企業の企画開発担当者や技術者の外部の発明に対する思いを知りました。
 
 大多数の企業では、その社の社員の発明より、外部の発明が上であれば、上であるほどに、それを認めれば、逆に企画開発担当者や技術者の無能さを晒け出すことになり、ひいては無駄飯食いと言うことにも成りかねず、どれほど素晴らしい発明でも、受け入れられる可能性は皆無に近いと思います。
 
 上記のような企画開発担当者や技術者は、外部からの発明の売り込みの手紙を見て、その発明のレベルが高ければ高いほどに、それが自分の立場を脅かす存在と映り、ますます顔を強張らせて「商品化に反対!」と言う言葉以外には言葉が出ないと思います。
 
 私の二十数年に及ぶ、日本の企業への発明の売り込みの実体験から言って、企業の企画開発担当者や技術者には偏狭で排他的な心(島国根性)が有り、レベルの高い外部の発明には相当な競争心や敵意を持っていると思います。
 
 発明を企業に売り込んでしばらくすると、私の権利に抵触しない形態に無理矢理した、ほとんど効果が望めない、真の抜けた商品が売り出されることが間々有ります。
 
 私からすれば、こんな、最初から売れる見込みの無い、先行投資した分の回収さえままならないような稚拙な商品を、新商品として売り出すぐらいなら、私にロイヤルティーを支払って、価値の有る商品を堂々と売り出した方が、その企業にとって、どれだけ得策だろうかと思ったことが何度も有りました。
 
 しかし、このような企業の企画開発担当者や技術者にとっては、社外からの発明を受け入れることは、自分の存在価値を否定することにつながり、企業にとっての利益を考える以前に、自分の保身を第一に考えなければならないのではと思います。
 
 「素人は真似されることを恐れ、玄人は真似されないことを恐れる」と言う諺からすれば、真似されるということは、その発明に価値が有ることの証には成りますが、結果としては、人様のアイデアを盗むことぐらいしか出来ないような無能な人間を手助けしたことになり、私にとっては不本意です。
 
 
 ときには、ある企業が、その企業の取引先の中小企業の社長を、下記のように、私の元に派遣してまで、私がどのような発明を持っているかを執拗に聞き出そうとしました。

 その男は、突然電話を掛けてきて「新聞記事を見ました。忙しくて直ぐには行けないので、とりあえず、貴方が持っている色々な発明の内で、有力なものを全て箇条書きにして、手紙にして送って下さい」と言いました。
 
 その常識外れの要求に、その魂胆は丸見えなので、私は要求を無視しました。
 
 すると、その数日後、突然その男から電話が掛かってきて「近くの駅まで来ているから迎えに来て下さい」と言いました。
 
 既に、その男の意図が分かっていましたので、私は会うことを望みませんでしたが、近くの駅まで来ていると言われれば、仕方がないので迎えに行きました。
 
 その中年男を自宅に招いて、新聞記事で見たと言う発明の試作品を見せましたが、その試作品には、ほとんど関心を示さず、様々な話を持ち出しては、私がどのような発明を持っているかを執拗に聞き出そうとしました。
 
 私は、その男の正体を承知していたので、どのような発明を持っているかを、あの手この手で執拗に聞き出そうとしても、一切教えませんでした。
 
 最後には、聞き出すことが無理だと悟ると、その男は、折り畳み式のカメラを洋服の胸の内ポケットから取り出して、ほとんど関心を示さなかったはずの試作品の写真を撮らせてくれと言いました。
 
 その目的は見当がつきましたが、何の利害も無いので承知しました。
 
 その男を駅まで送って行くと、その場になっても、まだ、「貴方が持っている発明の内で、有力なものを全て手紙にして送って下さい」と言いました。
 
 そして、その中年男は肩を落として、落胆の色ありありの後ろ姿で、駅舎に消えて行きました。
 
 その男に会った時点では、まだ新聞記事を見ていなかったので、その男に、「どのような記事でしたか?、写真は載っていましたか?」と訊ねたところ、親指と人差し指で四角をつくって「こんな小さな記事で写真も載っていなかった」と答えました。
 
 その後に、図書館に出向いて新聞記事を見たところ、その男の話とは大分違って、記事も大きく、写真も載ってい、その男が新聞記事を見ていなかったことを知りました。
 
 そのことで、その中年男を陰で動かしていた人間(企業)の存在に気付きました。
 
 そのとき、私は、その男を陰で動かしていた人間の心に、底無しと思えるほどの卑しさを感じました。
 
 上記の出来事を、顔見知りの社長に話したところ「実際に私の所に出向いた『証拠の写真を』提出すれば、私から何も聞き出せなくても、新幹線代プラス、日当5万円位は貰っただろう」と言いました。
 
 
 発明を売り込んだ企業からの返事の中には、封筒には、しわ一つ無いのに、便せんは、一度握り潰して、それを広げたしわだらけの便せんということが有りました。
 
 また、世間に名の知れた企業の中にも、素人でも分かるようなことで問題をすり替えて、あたかも権利に成らないかのように思わせようと、私の発明にケチを付けてくる企業が何社も有りました。
 
 それを見ても、この程度の頭の人間が、特許部長や企画開発責任者では先が知れているなと思える だけで、その頭のレベルの低さに相手にする気にもならず、呆れて腹も立ちません。
 
 また、二十数年も発明家をしていると、その間には、初めから契約する気など全く無いのに、私の足元を見て、試作品を見せに来てくれだの、試作品を送ってくれだのと要求する企業や人間を、飽き飽きするほど見てきました。
 
 発明家の足元を見て、自分の思いのままに人を動かすことで、満足感を得ようとするような心の卑しい人間にはウンザリしています。
 
 更に、親会社の指示を受けて、あたかも、その企業が私の発明に関心が有るかのように装って、試作品を送らせようと試みたことが何度も有りました。
 
 もし、試作品を送っていれば、私が送った企業とは全く別の、私の意に反する企業の人間が試作品を手にしていたことでしょう。
 
 ある時、韓国のメーカーに、ある発明を売り込む手紙を出したところ、私に電話(日本語)が掛かってきました。
 
 その用件は「写真に有る試作品を五台ぐらい航空便で送って下さい」とのことでした。
 
 先方が電話を切る直前に、受話器を通して、かすかに含み笑いが聞こえたので、その韓国のメーカーが記載されている英語の資料を詳細に見たら、なんと、日本のある大企業の子会社でした。
 
 そのとき、曲がりなりにも社会に名の知れた企業が、こんなたちの悪いことまでするのかと呆れました。
 
 また、発明を売り込んだ企業の中には、その社の製品を、その社から直接、通信販売で買ってくれたら、その社の発明会員にしてやるとのダイレクトメールを送ってきた常識外れの企業も有りました。
 
 私の思考には全く無いような『さもしい』ことをする上記のような様々な企業や人間には、ほとほと、ウンザリしています。
 
 
 発明歴二十数年、これまでに様々な多くの企業に発明を売り込んできた私の結論。
 
「どんなに素晴らしい発明でも、商品化を企業に頼る限り商品化の可能性はゼロに近い」、それが、発明歴二十数年、これまでに膨大な数の企業に発明を売り込んできた私の結論です。
 
 
発明は自分で商品化するのが確実な近道
 
 
 日本では、この文書に記載したような現状ですので、知的所有権を尊重する気風のある欧米の企業に発明を商品化して頂く方が、この美しさを世界中に広める近道だと考えています。
 
 別に、欧米人が善人で、欧米の企業が良心的だと思っている訳ではありまません。
 
 欧米の企業が知的所有権を尊重するのは、欧米では知的所有権の侵害をして、訴訟を起こされて敗ければ、その賠償金の額が数十億円、数百億円になることも珍しくなく、更に、その上の桁の賠償額になった例も有り、企業の存亡にも関わりかねないからだと思います。
 
 米国では、権利の侵害が悪質だと見なされた場合には、通常の損害賠償金の上に、更に、その数倍(最高400%?)の懲罰的賠償金が科されるので、知的所有権の侵害が割に合わないことを、多くの企業が認識していると思います。
 
 また、欧米は訴訟社会で、些細なことでも訴えられ、それを引き受ける弁護士も過剰?といえるほどにいて、その賠償要求も巨額になることが多いので、多くの人や企業が、権利を侵害して訴えられないように用心していると思います。
 
 また、欧米では人々の正義感が強く、企業倫理に対する目も厳しく、不正義と映るようなことをして、それが公になった場合のイメージダウンが甚だしいからだと思います。
 
 また、欧米では、相手に少しでも権利を証明するものが有れば、権利を侵害した側が裁判で敗ける可能性が高いからだと思います。
 
 また、裁判での勝算が有りそうな係争で有れば、報酬のパーセンテージは相当に高いようですが、成功報酬制でも請け負う優秀な弁護士が幾らでも居ると思います。
 
 上記のようなことから、欧米での発明の商品化を望んでいます。
 
 
 最後に、私の別の発明を少しと、趣味?を紹介させて頂きますと、
 
時計の写真 (4,49KB)  双針の針を用いて半回転(180度)で、針の両先端が交代で時間を指し示す仕組みにより、文字盤に写真や絵を自由に着脱できる時計
 
 コンパクトカセットテープレコーダーのキャプスタンに装着して、テープの走行速度を遅くして、長時間録音とテープの節約をする装置。
 
 時計の針の代わりに透明な円板を用い、その円板の厚さの中に光を通し、その円板に設けた凹凸を光らせ、時々刻々と様々な色の、様々な絵柄の光の色模様で文字盤面を飾る時計。
 
 幅広の輪ゴムの任意の部分を裏返すことにより、日付けなどを記憶する輪ゴム。
 
 その他、独創的な発明が数え切れないほど有ります。
 
 私には財力が有りませんので実現できませんが、立体映像を映し出すテレビの方式だけでも、私独自に八種類ぐらいの方式を考えつきました。
 
 私が、新しいものを創造するのが好きなのはいうまでもありませんが、それ以外では、散歩がなにより好きで、長年、毎日早朝から一、二時間歩いています。
 
 私が住んでいる地は気候が温暖で、まだ自然が多く残ってい、散歩中に交通事故に遭う事を警戒することなく気楽に歩ける所が、あちらこちらに有り、今日はあちらに散歩に行こうか、今日はこちらに散歩に行こうかと、その日の気分で、あちこち様々な所に散歩に行っています。
 
イメージマップ - 風景写真(63,4KB)  写真(イメージマップ)のような景色の所を歩くと壮快で頭がスッキリしますが、車で片道三十分位かかるところもあり、遠い所には毎日は行けませんので、最近は主に手近な所を歩いています。
 
 太平洋を望む丘陵地帯を海や周りの景色を見ながら歩いたり、
 
 太平洋に面した海岸沿いの土手、道路、砂浜、波打ち際などを海を見ながら歩いたり、
 
 川沿いの道や護岸を川面や水鳥を見ながら歩いたり、
 
 湖沿いの道や護岸を湖面や周りの景色を見ながら歩いたり、
 
 農道を季節による作物の移り変わりや、遥か北方に見える南アルプスの高峰を始めとする山並みを見ながら歩いたり、
 
 大河川の河川敷を周りの景色を見ながら歩いたり、
 
 海岸に沿って設けられている松林(防災林)の中の遊歩道を周りの木々を見ながら歩いたり、
 
 と様々な自然を楽しみながら歩いています。
 
 自然が残っている所を歩くと、そこここに様々な動物の姿があり、また、季節による植物の姿の移り変わりもあり、退屈しないとともに心が和みます。
 
 早朝から自然の中を歩いていると頭がスッキリして、壮快な気分になり新しい発想が次から次と湧いてます。
 
 長年、毎日歩いていると足が達者になり、十キロや十五キロ位歩いても、とくに歩いたという感覚はなく、これが、いざというとき?に役に立つかもしれません。
 
 
 
このホームページ全体の目次