私のプロフィールと思い(長文)  
私のプロフィールと思い(簡略)
 
私の顔写真 (5,54KB)  私は発明家を志して、はや、二十数年になる発明家です。
 
 二十数年の間には、通算して4900件の発明をし、特許と実用新案登録を自分の手で25件出願しました。
 
 その間には、何人もの新聞記者が私の発明の取材に来ました。
 
 そして、それらの発明が専門紙や一般紙などの新聞記事(無料)に、写真入りの記事として、自分の目で確認したものだけでも8回成りました。
 
 特許や実用新案登録を出願する場合、その発明に関して、それに類似する既存の技術や先願者の有無を調べることが重要です。
 
 また、商品化に要する資本や販路の関係で、発明を自分の手で商品化しない場合には、代わりに商品化して頂く企業を捜す必要が有ります。
 
 私は、それらの情報を得る為に、市立中央図書館や、それに付属する産業資料室、県立中央図書館、国会図書館、アメリカンセンター図書館、発明協会の県支部などに数え切れないほど足を運びました。
 
 図書館に頻繁に足を運んだ為に、職員に疑われて白い目で見られて不愉快な思いをした事や、公務員であることを忘れたような悪意の有る態度をとる職員に、不愉快な思いをさせられた事が何度となく有りました。
 
 しかし、それも遠い過去の事になりました。
 
 もう、二度と、そのような心の卑しい人間を見ることも、そのような人間に不愉快な思いをさせられる事も無いでしょう。
 
 インターネットを利用して国内外から情報を収集すれば、私にとって有用な最新の情報を短時間の内に、自宅に居ながらにして、少ない労力で容易に得られ、また、日本の図書館には、ほとんど無い海外の情報、それも最新の情報が容易に得られることも分かりました。
 
 たとえ、図書館に海外の情報が有ったとしても、それが英語の文献では、英語が苦手な私には、翻訳するのに不便でしたが、インターネットを利用して海外の情報を得れば、私のパソコンに入っている翻訳ソフトで、余り正確ではありませんが即座に翻訳でき、格段に利便性が増しました。
 
 
 私は、発明に関連した情報を得る目的や、試作に必要な材料を入手する目的などで、東京に6回、大阪に1回名古屋に100回位、静岡市に40回位足を運びました。
 
 その他にも様々な所、様々な施設に数え切れないほど足を運びました。
 
 頻繁に足を運んだ名古屋では、雪が降り積もる凍てつくような街を回ったことも、何度か有りました。
 
 また、ムッとするような熱風が吹きすさぶ炎天の街を回ったことも、何度か有りました。
 
 名古屋への行き帰りの国道一号線では、乗用車がトラックなどの大型車と衝突して大破した交通事故の現場を何回も目撃しました。
 
 それらの事故は、乗員の生存空間が無くなるほどに潰れた車の状態から、乗員の生命も危ぶまれることが察せられ、私の軽自動車では、このような交通事故に巻き込まれたら、そのまま終わりになってしまうのではと思うことが何度も有りました。
 
 そのような事故の現場を見た後、私もいつかは、あのような目に遭うのではと危惧しましたが、私が住む片田舎?では用が足りず、名古屋へ行くのを止める訳にはいきませんでした。
 
 私には、試作業者に依頼するような資金は全く有りませんでしたので、自分の足で様々な素材や材料を捜して入手し、自分の頭をフルに使って様々な工夫をし、試作の為に使う様々な自具を制作し、その自具を使って試作をし、何度となく様々な失敗をしました。
 
 その問題点を考察し、また新たに、新たな素材や材料を捜して入手し、更に頭を使って様々な工夫をして試作を繰り返し、その過程で様々なアイデアやノウハウを得ました。
 
 もし、私に財力が有って、試作を試作業者に依頼していたら、様々なアイデアやノウハウは得られなかったと思います。
 
 
 私は貧乏な発明家の為に、ごく小さな小型車や軽自動車しか持てませんでした。
 
(とりあえず用さえ足りれば最小限のもので良いとのケチな性格も有りますが。ちなみに、現在、新規格の軽に乗っています)
 
 小型車や軽自動車では、事故に巻き込まれたら一巻の終わりになりそうな東名高速は利用できず、国道一号線などなどを利用して、東京、大阪、名古屋、静岡市などに足を運びました。
 
 一般道を利用して東京や大阪まで足を運ぶと、時間帯にも依りますが往復15時間から20時間位は要し、用事を済まして、とんぼ返りすると、自宅にたどり着く頃には、精神的にも、肉体的にも疲労困憊してしまいました。
 
 自宅にたどり着く頃には、疲労で頭がもうろうとして、事故を起こさずに、よく無事に帰って来れたなと思った事も有りました。
 
(平均的な人よりは事故を起こす可能性が低い?)
 
 東京からの帰りには、箱根の峠道では夜となってしまい、必ずと言ってよいほどに濃霧が発生して、前方がほとんど見えず緊張の連続でした。
 
 ときには、濃霧の為に道に迷ってしまい、深夜に、箱根の山中や富士山の山麓の山道を、不安と孤独感をもちながら長時間さまよった事も有りました。
 
 それは、相当なストレスでしたが、自分の能力を信じて、明日に夢を持ち続ければ、それは、まったく困難でも、苦痛でも有りませんでした。
 
 
 私は、日々の生活の中で、常に、新しい発想の創出に心がけ、思いついたものを図にし、説明文を加えて書き留めてきました。
 
 日課としている散歩をしている時にも、床に就いている時にも、漠然と物思いに耽っている時にも様々な発想が頭に浮かんできます。
 
 大きな独創的な発想が一つ頭に浮かぶと、それに付随した様々な発想が、次から次ぎと頭に浮かんできます。
 
 思いついた発想を書き留める手の速さより、枯れることのない泉のように、次から次ぎと頭に浮かぶ新たな発想の方が遥かに多く、詳細に書き留めていると間に合わないので、とりあえず、ごく簡単に要点だけをメモし、発想が出尽くしたところで、メモを見て詳細に書き直すようにしています。
 
 しかし、詳細に書き直していると、新たに、次から次ぎと新しい発想が頭に浮かび、これでは、切りが無いなとウンザリしてくることも間々あります。
 
 それでも、気を取り直して、発想が出尽くすまではと、最後まで書き留めるように心掛けています。
 
 それらを書き留めたノートが、厚手の電話帳三冊分ぐらいには成りました。
 
 しかし、それは、私にとっては価値が有っても、私以外には、ほとんど価値が無い物かもしれません。
 
 世の中には、下の下としか表現のしようが無いような、さもしい企業や人間が存在することを身を持って、何度となく体験し、よく知っていますので、用心して、常に、重要なことは全て私の頭の中だけに留めるように心掛けています。
 
 私は、その他にも、発明に関しては、筆舌に尽くしがたいほどに、多大の精力や労力を惜しみなく傾注してきました。
 
 それが、たとえ、結果的には無駄骨折りや、徒労に終わろうとも、それが今後の蓄積になると思い何ら意に介しませんでした。
 
 
 もし、得られるものが僅かばかりのものであっても、確実に得られることを望むのであれば、馬鹿になって、組織に利用されるだけの、使い捨ての歯車となれば容易いことです。
 
 しかし、私は、それよりは、大きな事でなくても、才能を世界に認められるような人間に成りたい。
 
 諺に「鶏口となるも牛後となる勿れ」と有るように、大なるものの後ろに従うよりは、小さなものでも、その頭になった方がましだと思います。
 
 行動に対して必ず結果を求めるのであれば、欧米人に軽蔑される?いわゆる「猿真似」に徹すれば良いです。
 
 しかし、程度の差こそ有れ「猿真似」なら、本物の猿にでもでき、それが、どれほど巧みだったとしても、頭脳として評価するには値しないと思います。
 
 猿真似なら相当に高度なものでも、その構造や仕組みを丹念に調べて模倣すれば、先進工業国に限らず、世界中のほとんどの国で可能であり、より賃金水準が低く、諸物価も安い国で行った方が遥かに有利だと思います。
 
 極論すれば、資本さえ有れば技術的なことは金銭で解決でき、真似できないものは無いと思います。
 
 私が見た米国に有る知的所有権関係のホームページの中には、「警告 日本の企み!」との題名の文書を掲載しているホームページも有りました。
 
 その本文は読みませんでしたが、どのような趣旨のことが記載されていたかは想像に難く有りません。
 
 日本は特許の出願件数が世界一と言われます?が、現在の文化的な生活や科学技術を支えている様々な発明の内で、日本で、その原理が発明されたものが有るだろうかと考えても、私が勉強不足の為か重要なものでは全く思いつきません。
 
 欧米で発明された商品や技術を、ほんの少し改良しただけの、誰にでも出来る発明ばかりでは、世界の人々は、発明としての価値を認めないとともに尊敬もしないと思います。
 
 また、欧米で発明された商品や技術を、ほんの少し改良しただけの商品ばかりで商売をして、大きな富を得た日本を、内心では、ずる賢くて油断がならないと軽蔑する欧米人も大勢いると思います。
 
 数多くの日本人が、世界に通用するような発明、発見、研究、創作などを成し遂げてこそ、世界に日本人が優秀な人間であると認められ尊敬されるのであって、欧米の猿真似による繁栄では、頭は大したことはないが、手先が器用で、猿真似が得意で、ずる賢いとの評価しか得られないと思います。
 
 実際、日本人の容貌やイメージに猿を重ね合わせて、日本人を白人より劣った格下の人種と見なしている欧米人も可成りいると思います。
 
 
 それが欧米で発明された技術の延長線上に有る二番煎じでは、どれほど高度な技術であっても、所詮、猿真似でしかなく、いずれは世界の何処の国でも可能になり、そんなものは世界の誰も評価しないと思います。
 
 また、米国の大学や研究機関や企業には、中国人やインド人の優秀な技術者や研究者が大勢いて、米国での様々な分野での研究開発に貢献してい、それを考えると日本人の頭脳が特別優れているとは思えません
 
 日本の今までの経済的な繁栄には、他の国に一歩先んじて欧米の技術を積極的に取り入れた事や、第二次世界大戦によって多くの生産設備を失ったことにより、新たに新式の生産設備を導入したからという幸運な面が有ったと思います。
 
 今後も、資本力にものを言わせて、誰でも成れるガリ弁秀才を始めとする単なる労働力を大量に集めて、欧米で開発された技術を模倣した高品質の猿真似商品を大量生産し、それを世界の市場で大量販売し、その量産効果によって利益を得るという経営を続けるのであれば、近い将来、日本に比べて人口や資源が格段に多い中国やインドに追い越され、かつて世界に名を馳したヨーロッパのある国のように、ごく、ありふれた国に成ると思います。
 
 新たな技術を創造するのに比べて、既に有る技術を模倣するのは比較にならないほど簡単です。
 
 例えば、米国は第二次世界大戦中、マンハッタン計画の名の下、極秘の内に、二十億ドル(当時の貨幣)の巨費と、科学者や技術者や労働者を数十万人投入して、1945年7月に人類初の原爆実験に成功しましたが、その極秘であるはずの軍事技術が漏洩して、1949年8月には早くもソ連が原爆実験に成功し、1952年には前記の計画に参加していた英国も原爆実験に成功しました。
 
 更には、1952年に、米国が、重水素を用いた大形で可搬性の無い湿式水爆の実験に成功しましたが、その翌年の1953年には、早くも、ソ連が、重水素化リチウムを用いて、可搬性の有る実用的?な乾式水爆の実験に成功しました。
 
 極秘中の極秘の高度な軍事技術ですら、わずか数年で模倣してしまう国が次々と現れるのですから、民間の技術など、どれほど高度な技術であっても現物が有れば簡単に模倣できます。
 
 たとえ、日本の企業の技術者が、どれほど高度な技術を使った製品だと誇ってみても、それが欧米の猿真似による製品では、軽蔑されることは有っても、頭脳として世界の誰にも評価されないし、尊敬もされないと思います。
 
 欧米で発明された技術の猿真似による製品を、高度な技術を使った製品だと誇っているような日本の技術者は、『技術者』と呼ぶよりは『猿真似の熟練工』とでも呼んだ方が良いと思います。
 
 世界的に事業展開しているような一流企業?や、大学や研究機関で、研究開発に携わっている人の内のたとえ一割の人でもが、世界に通用するような発明、発見をしていれば、いつかのとっくに、日本が米国を追い越して世界一の経済大国に成るとともに、世界に冠たる頭脳大国に成っていると思います。
 
 しかし、現実には、猿真似専門の日本は凋落していく傾向にあり、いずれ、米国の地位を脅かすような経済大国に成るのは、人口や資源に勝る中国やインドなどだと思います。そのとき、日本は世界の人々から忘れられた国に成っていると思います。
 
 2002年現在に於いて、中国の通貨ベースでのGDP(国内総生産)は日本のGDPの20パーセント強に過ぎなくても、中国の物価水準を考慮した購買力ベースでのGDPでは、中国のGDPが4兆数千億ドルであるのに対して、日本のGDPは3兆数千億ドルに過ぎず、購買力ベースでのGDPでは、既に、中国の方が上回ってい、日本と中国の経済成長率の差を考えれば、日の出の勢いの中国に対して、日本は落日を迎えてい、「猿真似専門の日本は発想を変えない限り、本当に世界から忘れられた国になる」と思います。
 
 
私の顔写真/若い (10,2KB)  私は家庭の事情で充分な教育を受ける機会を逸しましたが、頭に関しては自信が有ります。
 
 実際に、名もない学校でしたが、試験の際には、制限時間90分間や120分間に対して、特に勉強しなくても、常に5分か10分ほどで答案を提出して退席し、周りを驚かせるとともに最高得点を得ていました。
 
 日本では、経済的に恵まれた家庭や、教育熱心な家庭の子弟などが、充分な教育の機会を得、本当の意味での頭の良さでは百人中、千人中ビリから一番かも知れないような人間が、社会の日の当たる場所で温々と暮らしていることが多々有ると思っています。
 
 記憶力や理解力で人間の能力を試すのであれば、試す人々を一カ所に缶詰にして、誰も知らない事柄を教えて、即座に試験をし、答案を提出するまでの所要時間と得点を見れば、本当の意味での記憶力や理解力に優れた人間が分かります。
 
 もし、そのような試験をしたら、日本で優れた頭脳として重用されている人間の内で、良い成績を挙げられる人間がどれほどいるか疑問です。
 
 また、本当の意味での頭の良さを試すのであれば、一つの問題(課題)に対しての解決手段をどれほど多く出せるか、その解決手段にどれほど新規性や独創性が有るか、その解決手段にどれほど効果が有るかなどを見れば、その人間の本当の意味での頭の良さが分かります。
 
 もし、そのような試験をしたら、日本で優れた頭脳として重用されている人間のほとんどが、出せるのは既に有る解決手段だけで、新規性や独創性が有る解決手段などほとんど出せないと思います。
 
 コンピュータの能力が日進月歩で向上している現在、既に有ることであればコンピュータに記憶させて、必要に応じて、そのデーターを引き出せば迅速、且つ、正確無比であり、人間が既に有ることを丸暗記してもほとんど意味が無いと思います。
 
 
キャリア組などと呼ばれる人間も、所詮、親の七光りだけで、本当の意味での才能が無いことぐらいは認識しているので、本当の意味での頭の良さを問われない道を選択している人間がほとんどで、本当の意味での優れた頭脳がどれほどいるか疑問です。
 
 また、大学教授の肩書きが有ったとしても、先人の成果を受け売りしているだけで、そこから一歩も踏み出せないのでは、小、中、高の学校の教諭と同じであり、単なる教師でしかないと思います。
 
 
 私は、先人の成果を受け売りしているだけで、そこから一歩も踏み出せないような人間には、たとえ、どのような肩書きが有ったとしても、頭脳としての価値を感じません。
 
 先人の成果の受け売りだけでは、どれほど高度な知識が、どれほど豊富に有ったとしても、それが優れた頭脳であることの証しには成り得ません。
 
 高度な知識を豊富に持ってはいるが、先人の成果の受け売りだけの知識人?、あるいは、学識者?ばかりが沢山いても、科学は全く進歩しません。
 
 本当の意味での頭の良さでは百人中、千人中ビリから一番かも知れないような人間でも、恵まれた環境さえ有れば、何にも煩わされることなく、何とかの一つ覚えで根気よく勉強でき、また、家庭教師や学習塾もふんだんに利用でき、既に有ることであれば覚えることは容易だと思います。
 
 日本の社会は、最初から持てる者に都合が良くできてい、最初から持てる者の師弟には、本当の意味での頭の良さでは百人中、千人中ビリから一番かも知れないような人間でも、親の経済力の後ろ盾によって容易にエリートに成れる仕組みが有ります。
 
 そんな、親の七光りだけの人間が人並み以上の報酬を得て、それにより、次の代でも、また見かけだけのエリートに成って人並み以上の報酬を得てと、何代にも渡って
親の七光りだけで安楽に暮らせる社会だと思います。
 
 日本の社会には、親の七光りさえ有れば、本当の意味での頭の良さでは百人中、千人中ビリから一番かも知れないような人間でも、医者、弁護士、裁判官、政治家(政治業者)、総理大臣を始めとする様々な大臣、高級官僚、大学教授、学者、大企業の社長、様々な家元、芸能人?など何にでも成れる仕組みが有り、その持てる人々に都合の良い仕組みを容認する土壌も有ります。それは既得権益の世襲制ともいえると思います。
 
 日本の国会議員の多くが、政治家ではなく、国会議員の地位を利用して、さまざまな利権で金儲けをしようとする政治業者だと思います。
 
 親から地盤(集票組織)、看板(名前)、鞄(金)を受け継げば、誰でも国会議員に成れるのでは?。実際、国会議員には二世議員が可成りいます。
 
 もし、首相公選制が行われていたならば、歴代の首相の内で首相に成れた人がどれほどいたか大いに疑問です。ひょっとしたら一人もいないのでは?。
 
 一握りの国会議員(派閥の有力者)が、自分達の私利私欲で一国の首相を決められるような国は、先進国では希で、世界の物笑いになっているのでは?。そんな首相は、民意によって選ばれた他の国の大統領などに比べて明らかに格下では?。
 
 また、世界的に名の知れた大企業でも、街の個人商店と同じように、その人の能力など度外視して、社長や重役のイスの世襲制が行われてい、大企業とはいえ、そんな企業の社員は、昔の商店の使用人の、番頭、手代、女中、丁稚、下男、下女などと大差無いと思います。
 
 自然界では、その種の中で優れた個体が、より多くの子孫を残す機会を得るという自然淘汰の繰り返しにより、その種全体として進化し続けますが、日本の社会の仕組みは、能力の無い人間でも、親の七光りによって何代にも渡って保護され続け、そんな無能な人間でも重用する仕組みが社会に有り、どちらかと言えば、全体としては退化する方向にあると思います。
 
 日本の社会では教育を受けるのに、既得権益を得ている親の子弟ほど、学習塾、予備校、家庭教師などをふんだんに利用でき、その結果、収入の低い労働者の子弟との受験競争で常に有利な立場にあり、本当の意味での公正、平等な教育機会とはほど遠く、その結果、本当の意味での優れた頭脳が活かされない事がどれほど有るだろうかと思います。
 
 
 一度しか無い人生、もし、本当に頭が良いと思っているのであれば、それを生かす道を選んだらと思っています。
  × 365日 
 もし、才能を発揮でき、自分の発明した理論や技術が世界中で使われ、その才能を世界の人々に認められたら、どれほど名誉なことだろうか。
 
 その上に、世界の歴史に偉人として名をとどめられたら、本人のみならず血縁者にとっても、末代まで、どれほど名誉なことだろうか。
 
 もし、本当に頭が良いと思ってい、それを発揮できる恵まれた環境を与えられているのであれば、世界に認められるような発明、発見、研究、創作などを成し遂げて、日本に次々とノーベル賞をもたらして、日本にノーベル賞の山を築いてみろと思っています。
 
 難易度が極めて高い代わりに、それを達成した時には、計り知れないほどの恩恵をもたらすような研究開発のテーマは幾らでも有りますが、多分、それらを実現するのは日本人ではなく欧米人だと思います。
 
 それぞれの国の人口比率を考慮すれば、米国人、英国人、独人などのノーベル賞受賞者の数に比べて、日本人のノーベル賞受賞者の数は、あまりにも少ないと思います。
 
 それは、日本の社会でエリートとされている人間の多くが、恵まれた環境さえ有れば誰でも成れるガリ弁秀才に過ぎないからだと思います。
 
 所詮、親の七光りだけでは、どんな素晴らしい環境を与えられても、エジソンにも、アインシュタインにも一歩も近づけないと思います。
 
 たとえ、東大の医学部や京大の医学部を出た偏差値エリート?(ガリ弁秀才)を百万人集めても、エジソンの代わりには成らないし、アインシュタインの代わりにも成らないと思います。
 
 また、誰がやっても、遅かれ早かれ同じ結論になるような研究成果しか挙げられない人間が、研究者として生涯生きられるのでは、欧米の研究者のレベルには及ぶべくもないと思います。
 
 私は、恵まれた環境さえ有れば、誰でも成れるガリ弁秀才には価値を感じません。
 
 私が価値を感じるのは、世界の誰も成し得なかったことを最初に成した人であり、たとえ、それが小さな事だったとしても、先人の成果の受け売りだけのガリ弁秀才とは比較にならないほどの価値が有ると思います。
 
 私は家庭の事情で充分な教育を受ける機会を逸し、その為に自分の能力を発揮する場が無く、長年、不遇の人生を歩んできました。
 
 次の代では私のような不遇の人生を歩んでもらいたくない。次の代では、日本で最高レベルの大学の医学部を経て研究者に成り、実力本位の海外に出てでも、世界に認められるような発明、発見をして、世界の歴史に名をとどめるような人間に成ってもらいたいと思っています。
 
 
 振り返れば、試作材料などの入手の為に、何度となく足を運んだ名古屋などでは、様々な所で、数多くの親切な人に出会いました。
 
 それらの人々の中には、損得勘定抜きの、本当の意味での親切な人も沢山いました。
 
 名古屋の電話帳を見て、私が必要とする材料を扱っている業者を捜し、その業者を訪ねて行くと、思った以上に立派な建物を構えた会社であることが間々有りました。
 
 その立派さに入るのを、しばし躊躇しましたが、わざわざ名古屋まで来たのだからと、意を決して入って用件を伝えると、どの会社でも、予想した以上に親切に応対してくれました。
 
 私のために仕事の手を止めて、その社の材料や機械を使って、その材料を私が望むように加工してくれ、「今回は無料で差し上げますので試してみて下さい」と加工した材料を無料で下さった社も沢山有りました。
 
 逆に、心卑しい人間に、酷い目に遭わされたことも有りました。
 
 あるとき、発明を売り込む手紙を出したところ、名古屋の、ある中小企業の社長から「発明を直ぐにでも商品化したいので打ち合わせに来て欲しい」との要請の電話が有りました。
 
 そこで、私が先方に出向いたところ、その企業の技術の総責任者と称する中年男が出て来て、恥も外聞もかなぐり捨てて、必死になって私の発明の商品化に反対しました。
 
 その男は興奮して我を忘れ、鼻でせせら笑いながら、私に敵意をむき出しにした態度を最初から最後までとり続けました。その姿には、技術者としてのプライドのかけらも感じられませんでした。
 
 その場に同席した社長が、それを諫めるかと思いきや、逆に、その男と社長共々に、私がどのような発明を持っているかを執拗に聞き出そうとし、聞き出せないと分かると、その社長は捨て台詞のような啖呵まで切りました。
 
 その社長は、ある世界的に名の知れた大企業の名を挙げて「あの会社は真似専門で大きくなった。世間では皆、会社名を捩って『まねした〇〇〇』と呼んでいる」と言いました。
 
 更に、その社長は「よその製品のアイデアを真似して自社の製品を造って、一年か二年の内に売りまくればいい。もし訴えられたら『知らなかった』と言えばいい。真似した者が勝ちだ」とうそぶきました。
 
 その他にも言いたい放題のことを言い「特許や実用新案なんか効果が無いが、内は良心的だから、内にアイデアを教えてくれたら、特許や実用新案を出願してなくても金を払うから、どのような発明を持っているか教えてくれ」と執拗に迫りました。
 
 その非常識さに、そちらの都合で、私を遠路わざわざ名古屋まで呼んでおきながら、よくこんな事ができるなと呆れました。
 
 内心思っているだけでなく、実際に「アイデアなんか盗んで使えばいい」と広言してはばからない企業経営者がいるとは思いませんでした。
 
 そのとき、こんな志の低い人間がやっている会社は長いことないなと内心思いました。
 
 その帰り道、車を運転しながら「足元を見られて騙された」という思いで腹が立ちました。
 
 その数年後に、新聞の新商品を紹介する欄に、ごく小さく、その企業の新商品が載りました。
 
 それは、記事を見ただけで、これを買う人はいないだろう。たとえ、値段が十分の一でも買う人は、よほどの物好き以外にはいないだろう。これでは利益を挙げるどころか、先行投資した分の回収も出来ないだろう。何処も真似をしないだろうと思うような稚拙な商品でした。
 
 案の定、その後、その商品が売れたという話もなければ、商品として展示されているのも、実際に使われているのも一度も見たことが有りません。
 
 その企業は、図書館に有る企業年鑑(未上場)で知りましたが、その当時ですら既に事業構成の大部分が、下請けの工賃仕事になってい、その企業本来の独立系のメーカーとしての仕事は、わずかな比率になっていました。
 
 その企業が独立系のメーカーとして生産していた商品は、現在では、台湾製や中国製が市場で幅を利かせてい、その企業が現在も、台湾や中国の企業と競争して自社商品を生産できているとは到底思えません。
 
 もし、企業として存続していたとしても、低単価の工賃仕事百パーセントの
先細りの企業に成り下がっていると思います。
 
 上記の出来事で、企業の企画開発担当者や技術者や経営者の外部の発明に対する心中を垣間見た思いがしました。
 
 私に言わせれば、能力の無い無能な人間ほど他の人の業績や才能を妬み、自らの能力を高めることより、才能や能力の有る人の足を引っ張って、他の人が自分より上に行くのを防ごうとします。
 
 島国の日本には、そのような無能で小さな小さな人間が、大学、研究機関、企業などに大勢いると思います。
 
 
 明治維新以来、今日まで、欧米の猿真似で経済を発展させてきた日本には、「アイデアなどの新技術は、『ただ』で何処かから持ってくれば良い」との考えが有り、アイデアなどの使用に、使用料を支払うという思想はほとんど有りませんでした。
 
 実際、日本人には、「水と安全とアイデアは『ただ』」という考えが染み付いていると思います。
 
 日本人の「アイデアなどの新技術は、『ただ』で何処かから持ってくれば良い」との考えと、その実践は、欧米人からすれば、巨大な価値を有する知的財産に対する泥棒行為でしかないと思います。
 
 日本には、まだ、知的所有権を重視し、尊重し、知的所有権に対して、その使用権料を支払うという発想を持たない企業が多く、大企業ですら、『ただ』で、よそのアイデアを使うことを考える企業が有ると思います。
 
 近年、商標権や著作権などの侵害に関する裁判で、些細なものでも、裁判所が権利者の権利を、より広く認める判決が相次いでいます。
 
 極論すれば、人間が発明、発見、解明、創作したもの等には全て知的所有権が存在し、これからの時代、知的所有権を重視して、知的所有権を積極的に活用した企業だけが、世界規模での競争に打ち勝って発展できるのではと思います。
 
 ガリ弁秀才を始めとする単なる労働力を大量に集めて、欧米で発明された技術を巧みに模倣した高品質の猿真似商品を、資本力にものを言わせて大量生産し、従業員一人当たりの利益の低さや、製品の利益率の低さを規模の大きさでカバーして、それによって大きな利益を得るという経営手法は、既に時代遅れになっていると思います。
 
 多くの企業が、コスト削減が至上命題であるかのように、コスト削減に腐心していますが、コストを削減しさえすれば、どのような商品でも、人件費や原材料費などの諸物価が安い国の商品との競争に勝てるのだろうかと思います。
 
 日本を代表するような大企業の製品でも、一次下請け、二次下請け、三次下請け、はては内職、更には人材派遣業者からの派遣労働者や、構内請負業者からの派遣労働者などの低賃金の上に成り立ってい、その裏側は、製品の華やかさとは大きく懸け離れていると思います。
 
 いつまで、その職場にいるか分からず、正社員に比べて責任感に欠ける派遣労働者を使って製品を製造して、人件費をケチっても、出荷時の製品の見かけ上の品質は同じでも、長い目で見れば製品の信頼性は確実に低下し、しいては日本製であることの意味が希薄になるのでは?。
 
 大企業が下請けを使う理由は、技術的に自社で出来ないからではなく、自社でやるよりも下請けにやらせた方が安く済むからであり、それでも下請けが利益を挙げられるのは、低賃金や、劣悪な労働環境や、劣悪な福利厚生などによって労働者を低コストで使えるからであり、一次下請け、二次下請け、三次下請けと下るにしたがって、労働者は二重にも、三重にも、四重にも搾取されていることになります。
 
 更には、多くの大企業が、アウトソーシングと称して、外部から、低賃金の上に何時でも「お払い箱」にできる労働者を大量に入れて、その企業の社員に取って代わらせて、人件費を削減する行為を大々的に行ってい、その様は、大企業自らが弱い立場の労働者を搾取して金儲けをしているように見えます。
 
 そのような、労働者を搾取しなければ金儲けが出来ないような企業は、さっさと、人件費の安い海外へ出たらと思います。その方が、早く国内に高付加価値を生む将来性の有る産業が育って、社会全体の利益になると思います。
 
 そんな、商品に付加した価値による利益ではなく、労働者を搾取した分が儲けのような次元の低い企業は、事業をしているのではなく、薄汚い金儲けをしているだけであり、そんな企業は、日本から、どんどん消えていけばよいと思います。それが世の中のためになると思います。
 
 大企業の社員の高い賃金水準は、上記のような多くの下請け労働者の犠牲の上に成り立ってい、近年、リストラの名の下に弱い立場の労働者を搾取する度合いが、より酷くなっていると思います。
 
 国内の大部分の下請け企業は、「大企業が自社でやるよりもコストが安い」ということ以外に存在意義が無く、取引の形態はどうであれ、本質的には、大企業の指示の下に、指示された通りの仕事をして工賃を得ているだけだと思います。
 
 また、自社製品を持つ中小企業にしても、大企業が生産しても採算が合わないために、大企業が手を出さない、いわゆる隙間商品を、労働者を韓国や台湾並みの低賃金で使うことによって、採算の合う製品としている企業が大部分であり、労働者に大企業の社員や公務員並みの待遇を提供している中小企業は希だと思います。
 
 率直に言って、大部分の下請けや中小企業には、労働者を搾取した分が儲けという本質が有り、労働者をより低賃金で使って得た利益を、経営者の才覚による利益と錯覚しているような、次元の低い経営者が日本には沢山いると思います。
 
 大企業の手先となって労働者を搾取して、その「おこぼれ」を頂戴するような「後ろめたい商売」には、私は、どれほどの余剰資本を手にしたとしても手を出しません。また、労働者を搾取して金儲けをしているような、次元の低い企業には外注もしません。
 
 
 市場経済の国際化によって、経済環境は急速に変化しているのに、相変わらず日本で、「何処の誰が製造販売しても構わないような単なる物」を商品とし、人件費の削減を始めとするコスト削減が全てで、コスト削減しか生き残る術が無いような企業は、諸物価が安い国の企業との競争に負けて、遅かれ早かれ消えて行くと思います。
 
 これからの時代は、商品に付加したアイデアや意匠などの知的な部分が、商品価格の多くの部分を占めるように成るのではと思います。また、そう成るべきだと思います。
 
 私は、「何処の誰が製造販売しても構わないような単なる物」に価値を感じません。そんな物を製造、販売している企業の採算が合おうが、合うまいが知ったことではなく、本当に必要な物だけを、出来るだけ安く入手するように心掛けています。
 
 本当に必要な商品に限っても、いくら高品質でも猿真似商品では、コストに利潤を上乗せしたメーカーにとって妥当な価格を付けたとしても、その商品を消費者が支持するとは限らず、日本製ほど高品質でなくても、その商品に見合った性能と耐久性が確保されていて価格がより安ければ、賢い消費者は、そちらを支持すると思います。
 
 家電などの大手のメーカーが生産しても、とても採算の合わないような付加価値の低い製品を、下請けとして国内で生産していた企業が、時代の変化で大手に見捨てられて、それを無名?の自社ブランドとして、微々たる利益しか望めないような、超低価格で市場に出すような商売をしていますが、そのような、安さが唯一の売り物で、何の創意工夫も無い企業は、中国、東南アジア、インド、パキスタンなどの企業との競争に負けて、いずれ消えて行くと思います。
 
 また、上記のような、売ってもメーカーにとって、ほとんど利益の見込めない超低価格の商品を、安さに釣られて買った消費者が、愛着を持って長年使い続けるとは思えず、そのような商品は早晩ゴミと化すと思います。
 
 ある意味では、そのような価値の低い、どうでもいい商品を生産している企業は、せっせと、『即席のゴミの元』を造って世の中に送り出しているようなものだと言えると思います。
 
 私は、毎朝、街の郊外を散歩をしていますが、家電、家具、生活雑貨、衣類、食品、雑誌など、ありとあらゆるゴミが不法に棄てられてい、ゴミがゴミを呼んで、あちらにも、こちらにもとゴミの山ができています。

 そのゴミの山を見て、メーカーや流通業者は、粗製濫造の物でも、とにかく、より多く売りさえすればよく、後のことは知ったことではないという感じです。
 
 
 新聞に、企業の人事担当者が「入社試験の応募者の中から社長面接に上げる人を選ぶときに、自分より能力が高いと思われる大学の出身者を意識的に外しました。私だって、いつリストラの対象にされるか分かりませんからね」と記者に真顔で話したと載っていました。
 
 それを読んで、私が体験した前記の出来事と発想は同じだなと、思わず顔が弛んでしまいました。
 
 私は、そのほか様々な体験から、日本の企業の企画開発担当者や技術者の外部の発明に対する思いを知りました。
 
 大多数の企業では、その社の社員の発明より、外部の発明が上であれば、上であるほどに、それを認めれば、逆に企画開発担当者や技術者の無能さを晒け出すことになり、ひいては無駄飯食いということにも成りかねず、どれほど素晴らしい発明でも、受け入れられる可能性は皆無に近いと思います。
 
 上記のような企画開発担当者や技術者は、外部からの発明の売り込みの手紙を見て、その発明のレベルが高ければ高いほどに、それが自分の立場を脅かす存在と映り、ますます顔を強張らせて「商品化に反対!」と言う言葉以外には言葉が出ないと思います。
 
 そような企画開発担当者や技術者は、外部からの発明を借りて会社の安泰を図るぐらいなら、会社が潰れる方が、まだましだと考えると思います。
 
 発明を企業に売り込んでしばらくすると、私の権利に抵触しない形態に無理矢理した、ほとんど効果が望めない、真の抜けた商品が売り出されることが間々有ります。
 
 私の考えでは、商品は、その企業の顔であり、人様のアイデアを盗んで、権利に抵触しない形態に無理矢理にしただけの間の抜けた商品を売り出したのでは、その企業に対する人々の評価を下げるだけだと思います。
 
 私からすれば、こんな、最初から売れる見込みの無い、先行投資した分の回収さえままならないような稚拙な商品を、新商品として売り出すぐらいなら、私にロイヤルティーを支払って、価値の有る商品を堂々と売り出した方が、その企業にとって、どれだけ得策だろうかと思ったことが何度も有りました。
 
 しかし、このような企業の企画開発担当者や技術者にとっては、社外からの発明を受け入れることは、自分の存在価値を否定することにつながり、企業にとっての利益を考える以前に、自分の保身を第一に考えなければならないのではと思います。
 
 「素人は真似されることを恐れ、玄人は真似されないことを恐れる」という諺からすれば、真似されるということは、その発明に価値が有ることの証には成りますが、結果としては、人様のアイデアを盗むことぐらいしか出来ないような無能な人間を手助けしたことになり、私にとっては不本意です。
 
 率直に言えば、日本の企業では、才能や業績を買われて研究や商品の企画開発に携わっている人は少なく、何の才能も無い平凡な社員が、ただ成り行きで、研究や商品の企画開発をする部門に配属されているだけの例がほとんどだと思います。
 
 そんな低次元の経営でも、同業他社も同じような経営であれば、ドングリの背比べであり、今までは、そこそこの利益が得られ、企業として成り立ってきたのだと思います。
 
 中国製や、その他の発展途上国製で充分と思えるような、大した技術を必要としない商品が、まだ日本で製造されて、家電量販店やホームセンターで売られています。
 
 そのような商品は、既に、日本国内の市場に台湾製や中国製が安価で出回っているのに、今さら、何で日本製が必要なのかと思い、そのような商品を何で家電量販店やホームセンターが扱うのか不思議です。
 
 また、巨額の広告費用を使ってテレビCMなどで大々的に宣伝し、あたかも価値が有るかのように消費者に思わせて、価値の低い商品を高価格で売るような商売も日本で成り立っています。
 
 また、商品の品薄状態を故意につくったり、どのような策を使ったかは分かりませんが、たわいない新製品をテレビのニュースやワイドショーで紹介して貰って、愚かな消費者の購買意欲をかき立てて、価値の低い商品を大量に売ろうとするような商売も日本で成り立っています。
 
 日本は不況、不況と言われて久しいですが、上記のような低次元の商売や姑息な商売をしている企業が、消費者に受け入れられ経営が成り立っている現状では、私からすれば、まだまだ甘い社会だと思います。
 
 しかし、中国製や発展途上国製で充分と思えるような商品を、相変わらず日本で製造している企業に協力する流通業者が何時まで有るか、また、そのような商品を買う愚かな消費者が何時まで有るか疑問です。
 
 繊維、衣類、日用雑貨、軽工業品、家具、家電、パソコン、自転車、オートバイなどが、台湾や中国を始めとするアジア諸国の製品に置き換わっていったように、いずれ、次元の低い経営をしている多くの企業が消えていくと思います。
 
 
 ときには、ある企業が、その企業の取引先の中小企業の社長を、下記のように、私の元に派遣してまで、私がどのような発明を持っているかを執拗に聞き出そうとしました。

 その男は、突然電話を掛けてきて「新聞記事を見ました。忙しくて直ぐには行けないので、とりあえず、貴方が持っている色々な発明の内で、有力なものを全て箇条書きにして、手紙にして送って下さい」と言いました。
 
 その常識外れの要求に、その魂胆は丸見えなので、私は要求を無視しました。
 
 すると、その数日後、私に何の事前の承諾もなく、突然その男から電話が掛かってきて「近くの駅まで来ているから迎えに来て下さい」と言いました。
 
 既に、その男の意図が分かっていましたので、その男に会っても時間と労力の無駄でしかないので、私は会うことを望みませんでしたが、近くの駅まで来ていると言われれば、仕方がないので迎えに行きました。
 
 その中年男を自宅に招いて、新聞記事で見たと言う発明の試作品を見せましたが、その試作品には、ほとんど関心を示さず、様々な話を持ち出しては、私がどのような発明を持っているかを執拗に聞き出そうとしました。
 
 私は、その男の正体を承知していたので、どのような発明を持っているかを、あの手この手で執拗に聞き出そうとしても、一切教えませんでした。
 
 最後には、聞き出すことが無理だと悟ると、その男は、特殊なフィルムを使うドイツ製の超薄型の折り畳み式のカメラを洋服の胸の内ポケットから取り出して、ほとんど関心を示さなかったはずの試作品の写真を撮らせてくれと言いました。
 
 その目的は見当がつきましたが、何の利害も無いので承知しました。
 
 その男を駅まで送って行くと、その場になっても、まだ、「貴方が持っている発明の内で、有力なものを全て手紙にして送って下さい」と言いました。
 
 そして、その中年男は肩を落として、落胆の色ありありの後ろ姿で、駅舎に消えて行きました。
 
 その男に会った時点では、まだ新聞記事を見ていなかったので、その男に、「どのような記事でしたか?、写真は載っていましたか?」と訊ねたところ、親指と人差し指で四角をつくって「こんな小さな記事で写真も載っていなかった」と答えました。
 
 その後に、図書館に出向いて新聞記事を見たところ、その男の話とは大分違って、記事も大きく、写真も載ってい、その男が新聞記事を見ていなかったことを知りました。
 
 そのことで、その中年男を陰で動かしていた人間(企業)の存在に気付きました。
 
 そのとき、私は、その男を陰で動かしていた人間の心に、底無しと思えるほどの卑しさを感じました。
 
 いくら、生き馬の目を抜く世の中とはいえ、曲がりなりにも社会に名の知れた企業が、産業スパイ同然のことをするとはと、その心の卑しさに空恐ろしさを感じました。
 
 上記の出来事を、顔見知りの社長に話したところ「実際に私の所に出向いた『証拠の写真を』提出すれば、私から何も聞き出せなくても、新幹線代プラス、日当5万円位は貰っただろう」と言いました。
 
 
 また、発明を売り込んだ企業からの返事の中には、封筒には、しわ一つ無いのに、便せんは、一度握り潰して、それを広げたしわだらけの便せんということが有りました。
 
 また、世間に名の知れた企業の中にも、素人でも分かるようなことで問題をすり替えて、あたかも権利に成らないかのように思わせようと、私の発明にケチを付けてくる企業が何社も有りました。
 
 それを見ても、この程度の頭の人間が、特許部長や企画開発責任者では先が知れているなと思える だけで、その頭のレベルの低さに相手にする気にもならず、呆れて腹も立ちません。
 
 また、二十数年も発明家をしていると、その間には、初めから契約する気など全く無いのに、私の足元を見て、試作品を見せに来てくれだの、試作品を送ってくれだのと要求する企業や人間を、飽き飽きするほど見てきました。
 
 発明家の足元を見て、自分の思いのままに人を動かすことで、満足感を得ようとするような心の卑しい人間にはウンザリしています。
 
 更に、親会社の指示を受けて、あたかも、その企業が私の発明に関心が有るかのように装って、試作品を送らせようと試みたことが何度も有りました。
 
 もし、試作品を送っていれば、私が送った企業とは全く別の、私の意に反する企業の人間が試作品を手にしていたことでしょう。
 
 ある時、韓国のメーカーに、ある発明を売り込む手紙を出したところ、私に電話(日本語)が掛かってきました。
 
 その用件は「写真に有る試作品を五台ぐらい航空便で送って下さい」とのことでした。
 
 先方が電話を切る直前に、受話器を通して、かすかに含み笑いが聞こえたので、その韓国のメーカーが記載されている英語の資料を詳細に見たら、なんと、日本のある大企業の子会社でした。
 
 そのとき、曲がりなりにも社会に名の知れた企業が、こんなたちの悪いことまでするのかと呆れました。
 
 また、発明を売り込んだ企業の中には、その社の製品を、その社から直接、通信販売で買ってくれたら、その社の発明会員にしてやるとのダイレクトメールを送ってきた常識外れの企業も有りました。
 
 私の思考には全く無いような『さもしい』ことをする上記のような様々な企業や人間には、ほとほと、ウンザリしています。
 
 
 
このホームページ全体の目次